2006年05月06日

映画「ハーモニーベイの夜明け」と「アメリカンビューティー」

ハーモニーベイ.jpgハーモニーベイの夜明け
アンソニー・ホプキンス (2004/03/03)


人間50年も生きていくとある日を境に突如その人間性が大きく変貌することなど有り得ない事のように思ってしまう。映画「ハーモニーベイの夜明け」と「アメリカンビューティー」はそんな人間の可能性を描いた作品だ。

この二つの映画はどちらも一人の男がその社会性を捨て去ることによって周囲に巻き起こす強烈なドラマである。人間が社会性を失って、なおかつ人間であり得るのか? ということは興味深い問題だが、ここではむしろ人間の元あるべき自由さと原点の普遍性を取り戻す契機になっている。

映画として脚本を練り上げ、何十人ものスタッフによって何とか見える形に作り上げるという労苦の多い作業を嬉々としてやり遂げるほど情熱を傾けるということは、つまり残念ながらこのような人間が現実には困難なことを示している。でなければ誰もそのような映画を作ろうと思いもしなければ、見ようかとも思わないだろう。かように現代社会は「裸の人間」を許さないステージなのだ。
確かにこうした考えはお目出たい性善説に基づいた理想かもしれない。しかし我々が空気のように当然の存在と考えている社会こそ、万人向きの既製服で安全を根拠に人間を縛り上げている幻想にすぎないのかもしれないのだ。

 
タグ:人生
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2006年05月01日

最後の誘惑(1988年 米)

最後の誘惑.jpg最後の誘惑
ウィレム・デフォー (2006/04/19)
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン


製作年を見てちょっと意外なほど古い映画なのだけど、内容はいささかも古びていなかった。
スコセッジ監督といえば「タクシードライバー」のニューヨークと孤独で少々危険な青年トラビス(若き日のロバート・デニーロ)が忘れることが出来ない。その後色んなものを撮ったが結局スコセッジという監督は映画というものはただ見て楽しんで終わりというものではないと信じているようで、どう見てもそれらには一流の芸術作品としての風格がある。
キリスト教国でのこの映画の封切上映当時には混乱があって、様々な方面からの上映中止の圧力をかいくぐったらしい。その後もしばらくレンタルビデオの大手では何気なく在庫がないということにしていたそうだ。

スコセッジ監督の映画を見ていつも思うのはその緻密な構造の只中に必ず訳の判らない映像とセリフが差し挟まれてあることだ。それは謎のように印象に残ってしまう。
しかし映画の中で語られるイエスのセリフは少しも歪曲されてなどいない。まさしく新約聖書に伝わるイエスが語ったとされる言葉なのである。スコセッジ監督はその一字一句もおろそかにしていない。だから今見るとむしろ監督の信仰告白のような様相を見せている。それは何もキリストを高みから引きずりおろすことではなく、歴史の謎解きでもない。まさにマーチン・スコセッジの出会ったキリストなのである。つまりこれはほかでもなく自らの才能と全霊をもってのまさに「信仰告白」なのだ。

スコセッジの想像力は、キリストイエスは40日40夜荒野に引かれて行ったと聖書に記されているだけの内容に及んでいるが、我々もいったいどのような修行の様子だったのだろうか、と想像するのみである。それを映画監督という人種は映像化する。新約聖書は簡素に記述するのみであるが、これを映像にしないで置くなどということは映画監督にあっては出来ない相談だ。

いずれにしてもキリストについて我々が語るとき、悪口にしろ賛美にしろ無視にしろ、そこにキリストはまるで試金石のように働きかける。語る者の心の深度ともいうようなものが暴露されてしまうのである。その人が人生において何を最も重要と考えているか、何を一番恐れているか、何を最も欲しているか、今までどのようなことを学んだのか、すべてがさらけ出されてしまう。だから利口な者はキリストについては語らないでおくということはあり得る。それも一つの処世術であるに違いない。


 
タグ:キリスト
posted by musicpc at 20:37| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Movie DVD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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