2007年03月29日

ナイト・ウォッチ 2004年ロシア作品

night watch.jpgナイト・ウォッチ NOCHNOI DOZOR
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
監督・脚本: ティムール・ベクマンベトフ
出演: コンスタンチン・ハベンスキー, ウラジミール・メニショフ
原作: セルゲイ・ルキヤネンコ
2004年アカデミー賞外国語部門にノミネート/2005年ブリュッセル国際ファンタジー映画祭で銀鴉賞を受賞後、全米で公開
2006年日本公開

見つけましたよ、見つけましたよ! これですね、「映画という驚き」は。
さすがにエイゼンシュタイン、タルコフスキーという映像の怪物を生み出した国の作品だ。もんのすごいですねこれ。
私は「コンスタンチン」や、ブコウスキーの「つめたく冷えた月」やら、古くは「ブレードランナー」やらマーチン・スコセッジの作品やらを好んで観ていたわりには残念ながら知らなかったね、この映画監督の存在自体を。だいたい題名が平凡すぎるよこれじゃ。

芸術というものは一種衝撃であって、何もことさら芸術作品であることを標榜しなくても、それを示すだけで芸術であることをおのずと表出する作品なのであると気付く。つまりこの場合は「映像芸術」だ。
これはまさに見まごうことなき「芸術」であります。しかも第一級です。
いったいこの監督はこの映画を撮るまで何処でどんな作品を出していたのだろう? まったく困った人だ。

ティムール・ベクマンベトフ監督により映画化された本作『ナイト・ウォッチ』は、ロシアの作家セルゲイ・ルキヤネンコが書いた小説が原作だ。1999年にロシアのSF大賞である「遍歴者賞」を受賞。ロシアで300万部を売り上げ大ヒットしたとある。これも私は知るわけがない。
同じような題材を扱った映画「コンスタンチン」などはこれに比べればアメリカ的な作り物であって、もはやディズニーランドシーケンスと言ってもよかったことに今頃気付いたりする。まあ、興行収入第一だからねあちらは。
映画「マトリックス」についてはこの映画を観てしまうと、その第一作のみがこれに並べることが出来る。そんな映画である。
あとは思い出して並べられる歴史的作品リストが無い。というよりも思い浮かばない。そういうこと自体が現代芸術においてはすでに大変な事件なのである。

芸術の深き甘味と苦味を知らない人にはこの作品の正統な鑑賞は無理な話で。ネットには的外れで俗なレビューがあふれているのは残念だが、まあ一般受けではその程度だろね。そんなの気にしない、気にしない。

 
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2007年03月12日

クラッシュ

kulashu.jpgクラッシュ
サンドラ・ブロック (2006/07/28)
東宝/2004年 アメリカ映画


監督・脚本: ポール・ハギス(『ミリオンダラー・ベイビー』の脚本家が初監督)
第78回(2005年)アカデミー賞作品賞、脚本賞、編集賞の3部門受賞

たしかに世の中甘くはない。
世の中といっても家族の中でさえそれほど甘くはない日常を人々は生きている。おまけに各国人種を目と鼻の先にして毎日過ごさなければならないアメリカとなると、ことに様々な問題が果てしなく広がるばかりだ。
とんでもない家族の、のっぴきならない十字架を背負って生きる人々をこの脚本家、ポール・ハギスは前作「ミリオンダラー・ベイビー」で描いたが、今回は彼自身の監督による映像となった。ならばやはり観なければならないだろうね。
さて手腕のほどは? というわけでけっこう期待されていたんじゃないかな。

だいたい「ドラマ」というものはどちらかというとステレオタイプな人物が登場するのが常だ。役者もあらかじめそういうお約束な演技の引き出しを持ち合わせて商売している。ところがこの脚本家の手になる人物像はまさにリアルな複雑さを醸し出す。
映画に登場するケチな車泥棒の黒人2人組みはまさにそうしたステレオタイプなのかもしれないが、兄貴分のでかい方のヤツはそうしたお定まりなイメージを辛らつなジョークで笑い飛ばすことで観客をとりあえずとまどわせる。つまりミスマッチなエスプリが映画のプロローグとなっているのだ。
穿ったことをいきなりまくしたてるこの人物は監督の代弁者といって良いのだろうか。そういう軽いジャブで事件は始まる。けっこういい感じだ。

人間というのは何も、唾棄すべき奴だからといって1日24時間四六時中唾棄すべきことを考えているわけではない。またお堅い職業の人物だからといって何も四六時中お堅いわけでもない。それはあのケチな車泥棒だってそうなのだ。そこにこのドラマの複雑な人間性の表現という妙が現われる。
その上、人はしばしば物事と人間の見えなさによって、間違えたりする。それこそ悲劇的な大間違いをしでかすのだ。

そんな大間違いをしでかす瞬間に、いったい誰が我々を守ってくれるのだろう?
映画「クラッシュ」はそんな人間の複雑さと愛おしさ、汚らしさと透明さ、怒りと安らぎを織り成すように映像化した。
答えがないわけではない。何処かにあるのではなく目の前にあるのだ、ということをこの映画は示し続けていたかったのだろう。

 
ラベル:アカデミー賞
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2006年12月15日

K−PAX(光の旅人):2001

K-PAX.jpgK-PAX 光の旅人
ケビン・スペイシー (2004/03/03)
監督:イアン・ソフトリー Iain Softley
脚本:チャールズ・リーヴィット Charles Leavitt
底本:ジーン・ブルーワー(科学者でもある)が 1995年に発表した同名の小説を映画化。
撮影:ジョン・マシーソン John Mathieson


去っていく者はいつも謎を残す。
映画 K−PAX[光の旅人]は2001 年9月 11 日の同時多発テロ直後の 10 月にアメリカで封切られ、No.1大ヒットとなった作品だ。

SF映画好きというのは、未来的デザインの質感リアルなマシンやぶっ飛んだ空間認識やら、それらしく快適で機能的なルームセットデザインやら、特殊メイクやらを楽しむというのが通常だろうが、この映画はそういったものはほとんど出てこない。
「惑星ソラリス」を撮った監督タルコフスキーでさえ宇宙船のルームデザインはそれらしく作ってあった(未来都市のワンカットは新宿高層ビルエリアのロケだったが)。しかしこの映画の舞台はまさしく生でリアルな「現在」なのだ。


さて、こうも後ろ盾がないSF映画を撮るとなると、役者の演技能力自体がそうとう要求されるはずなのだ。SFXやそれらしいコスチュームや奇妙なメイクでガードされていれば、役者は自分が外惑星人だということをことさら派手に演じなくてもよくなる。ある意味ラクに芝居が出来る。
しかしこの映画での主人公はまったく何もごまかせない生の人間を演じるのである。ただ出生が我々とはまったく違うということを除けば…。現実的に見ればむしろ悲惨な状態の精神疾患を持つ一人の男に過ぎない。
この映画は主演のケビン・スペイシー(自らK−PAX人だと主張する者)は当代一流の役者(アカデミー賞を獲得したオスカーの評判が高い)だそうだが、その深度ある演技力をもってこそ、この映画は実現したのだろうなと納得させる逸品だ。

底本[K−PAX]についてはあるレビュアーいわく「小説を読んでいるつもりが途中で実際にあったノンフィクションを読んでいるのじゃないかと錯覚しだすくらい、変な小説」なのだそうだ。

ストーリーの中で彼が発揮する「癒しの能力」は当時アメリカでさかんに出版されていたヒーリングの未知な能力を扱ったサブカルチャーに通じていると思う。むろんそれは外宇宙の知的存在を最も強く意識している文化である。そうしたものがうっすらと見え隠れする映画でもある。
そういえば癒しの達人「キリスト」もあんな風に突然去って行ったんだよねー…。

 
ラベル:SF
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2006年05月06日

映画「ハーモニーベイの夜明け」と「アメリカンビューティー」

ハーモニーベイ.jpgハーモニーベイの夜明け
アンソニー・ホプキンス (2004/03/03)


人間50年も生きていくとある日を境に突如その人間性が大きく変貌することなど有り得ない事のように思ってしまう。映画「ハーモニーベイの夜明け」と「アメリカンビューティー」はそんな人間の可能性を描いた作品だ。

この二つの映画はどちらも一人の男がその社会性を捨て去ることによって周囲に巻き起こす強烈なドラマである。人間が社会性を失って、なおかつ人間であり得るのか? ということは興味深い問題だが、ここではむしろ人間の元あるべき自由さと原点の普遍性を取り戻す契機になっている。

映画として脚本を練り上げ、何十人ものスタッフによって何とか見える形に作り上げるという労苦の多い作業を嬉々としてやり遂げるほど情熱を傾けるということは、つまり残念ながらこのような人間が現実には困難なことを示している。でなければ誰もそのような映画を作ろうと思いもしなければ、見ようかとも思わないだろう。かように現代社会は「裸の人間」を許さないステージなのだ。
確かにこうした考えはお目出たい性善説に基づいた理想かもしれない。しかし我々が空気のように当然の存在と考えている社会こそ、万人向きの既製服で安全を根拠に人間を縛り上げている幻想にすぎないのかもしれないのだ。

 
ラベル:人生
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2006年05月01日

最後の誘惑(1988年 米)

最後の誘惑.jpg最後の誘惑
ウィレム・デフォー (2006/04/19)
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン


製作年を見てちょっと意外なほど古い映画なのだけど、内容はいささかも古びていなかった。
スコセッジ監督といえば「タクシードライバー」のニューヨークと孤独で少々危険な青年トラビス(若き日のロバート・デニーロ)が忘れることが出来ない。その後色んなものを撮ったが結局スコセッジという監督は映画というものはただ見て楽しんで終わりというものではないと信じているようで、どう見てもそれらには一流の芸術作品としての風格がある。
キリスト教国でのこの映画の封切上映当時には混乱があって、様々な方面からの上映中止の圧力をかいくぐったらしい。その後もしばらくレンタルビデオの大手では何気なく在庫がないということにしていたそうだ。

スコセッジ監督の映画を見ていつも思うのはその緻密な構造の只中に必ず訳の判らない映像とセリフが差し挟まれてあることだ。それは謎のように印象に残ってしまう。
しかし映画の中で語られるイエスのセリフは少しも歪曲されてなどいない。まさしく新約聖書に伝わるイエスが語ったとされる言葉なのである。スコセッジ監督はその一字一句もおろそかにしていない。だから今見るとむしろ監督の信仰告白のような様相を見せている。それは何もキリストを高みから引きずりおろすことではなく、歴史の謎解きでもない。まさにマーチン・スコセッジの出会ったキリストなのである。つまりこれはほかでもなく自らの才能と全霊をもってのまさに「信仰告白」なのだ。

スコセッジの想像力は、キリストイエスは40日40夜荒野に引かれて行ったと聖書に記されているだけの内容に及んでいるが、我々もいったいどのような修行の様子だったのだろうか、と想像するのみである。それを映画監督という人種は映像化する。新約聖書は簡素に記述するのみであるが、これを映像にしないで置くなどということは映画監督にあっては出来ない相談だ。

いずれにしてもキリストについて我々が語るとき、悪口にしろ賛美にしろ無視にしろ、そこにキリストはまるで試金石のように働きかける。語る者の心の深度ともいうようなものが暴露されてしまうのである。その人が人生において何を最も重要と考えているか、何を一番恐れているか、何を最も欲しているか、今までどのようなことを学んだのか、すべてがさらけ出されてしまう。だから利口な者はキリストについては語らないでおくということはあり得る。それも一つの処世術であるに違いない。


 
ラベル:キリスト
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2006年04月30日

つめたく冷えた月(1991年)

つめたく冷えた月.jpgつめたく冷えた月
パトリック・ブシテー (2004/06/25)
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン


一度ローカルの深夜映画でこれを見たことがある。その時は後半からしか見れず、それでも東京でバカやっていた頃を思い出した。
一緒にバカな日常を過ごしたその友達はたぶんこの映画を「すごいよー」「ブコウスキー?知ってるよ、ヤツはね…」なんて言いながら褒めるだろうね。何せ彼は身辺無一物のくせに「バタイユ全集」は持っていたような奴だからなあ。もうずっと消息不明だ。

あのモノクロームも美しい映画がブコウスキーの短編を下敷きにしたものだということをDVDで初めて知った。前日記でバーフライ(1987ブコウスキーの脚本)について書いているのでどうやら私はブコウスキーがお気に入りのようだ。読んでみようと思っている。

 
ラベル:奇妙な映画
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2006年04月27日

ミリオンダラー・ベイビー(2005年)

ミリオンダラー・ベイビー.jpgミリオンダラー・ベイビー
クリント・イーストウッド (2005/10/28)


どちらかというと「ローハイド」の頃から私のお気に入りな役者、クリント・イーストウッドの年老いた姿を見たくはなかった(お顔ボロボロですぞしかし、メイク?)が、アカデミー賞主要4部門でオスカーともなると、観ない訳にはいかんだろうね。

別にラストで涙は出なかったが秀逸な作品です。イーストウッド25本目の監督作ということだけど遺作にならなければいいが。イーストウッドはこの作品の元となった本、F・X・トゥールの短編集「Rope Burns」が気にかかっていて、いつか映画化したいと考えていたそうだ。脚本をポール・ハギスというエミー賞受賞脚本家が書き上げたので映画化に踏み切った。

それにしても老境にある二人、イーストウッドとモーガン・フリーマンのとぼけたやりとりは傑作ですねこれ。過去に大きな傷を持つ年老いたボクシングジム経営者兼トレーナーと、心の傷と共にパートナーとして付かず離れずの老ジムアシスタント(モーガン・フリーマン)のヒューマンな関係は物語準主役の破壊された人生を歩んできた田舎娘(トレーナーを信頼してジムに来る女性ボクサー志望)との関係ともあいまってどちらが濃厚なのか判らないほどに並行して物語が進行する。

ラストで涙は出なかったと書いたが、これは「尊厳死」という現代医療の究極の選択について現実的でのっぴきならない問題が含まれているからである。私はむしろ目を見開いてこの物語がどうするのかを見た。ちなみにこの物語には頻繁に神父が登場する。老トレーナーが日常的に近くの教会を訪れるからである。しかし彼らも他人の押し潰されそうに巨大な十字架の前では無力を隠すもっともらしいことを口にするのみだ。そこには少なくとも悪意はないということがただ一つの救いか。

そしてまた、ボクサーとなる彼女の家族の底知れない問題。つまり親兄弟といえどもどうしようもなく破壊されつくした赤貧にあって、人間はもはや人間ではなくなるほどに悪魔的に捻じ曲がり得るということだ。これは卑近な問題であって、実際に誰もがこうした「平気で嘘をつく人たち」にある人物資料そのままに被害をこうむる可能性が大きい。それは人生どころか全人格におよぶ凶行といっても過言ではない。そんな人間が母でござい、親でござい、兄弟でござい、と言っては人の魂と人生を破壊し続けるのである。家族であるだけにむしろその破壊力は途方もないものに違いない。

 
ラベル:家族の問題
posted by musicpc at 20:22| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | Movie DVD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月06日

Louie Louie

コーヒー&シガレッツ.jpgコーヒー&シガレッツ
ロベルト・ベニーニ (2005/09/09)


LOUIE LOUIE ルイルイ というのはパンクロックやガレージバンドの大御所IGGY POP(イギー・ポップ)がいまだ健在として93年に出したアルバム AMERICAN CAESAR「アメリカン・シーザー」に入っている1曲である。

実は私、このロッカーをまったく知らなかった。ディスコグラフィーの年代を見るとかなり古くからのパンク一筋アーチストであって、まだジョンレノンが活動していた頃までさかのぼる。いやー知らなかったなあ…こんな物凄いヤツが居たとは。いやピストルズは知ってたよ。

こんなパンクバンドをどうして知ったかというと、過去日記にもあるように最近TSUTAYAでDVDを借りて映画見まくりまくっていたところ、ある日ジムジャームッシュ監督の映画『coffee and cigarette』を観た。と思いねぇ。それのエンドロールに流れるガレージバンドらしき奴らのサウンドがどうも良いのである。ギターもいいしドラムもこれの他に考えられない。ボーカルなどこちらがどうこう言えるほどのレベルではない良さだ。だいいち悪いところ(私が気に入らない箇所)が全然ないサウンドではないか。これは大変だあーーー!。
これこそ知る人ぞ知る「パンクのゴッドファーザー」と呼ばれて久しいIGGY POPの歌うLouie Louieという曲だったのであ〜る。

というわけで、このDVD映画を返すその日に話を戻す。ロックバンドのことは何も知らない私はふとTSUTAYAの店員にエンドロールに流れる曲のことを言ってみた。若い奴らなら誰でも知っている有名なバンドなのかも知れないし、バンド名ぐらいはすぐに判るだろうと思ったのである。ガレージバンド流行ってるし。
ところがこの私の一言のせいでえらいことになってしまった。DVD側には何の情報もなかったのであ〜る。紹介記事もあちこち調べたがわからない。本編のエンドロールを見ようということになった。
店内カウンターにある機器でエンドロールを出すが、そばの誰が聞いても判らない。さあ誰?で何という曲でしょう?ということになった。さらにもう一人の店員さんがネットを使って情報を検索し始めてくれた。
どうやらIGGY POPというバンドらしいということまで判明。エンドロールの細かい文字を見ていた店員がどうやら「ルイルイ」という曲らしいが映画は他にたくさんの様々な音楽をバックグラウンドに使っているので定かではない。と結論した。もう一人の店員さんはあきらめなかった(すみません店員さん、ありがとね)。彼女はさらに店内のIGGYのアルバムを全部出してきてそのLOUIE LOUIE なる曲がIGGYのどのアルバムにあるか調べ始めた。しかし見付からない。店内には「アメリカン・シーザー」が無かったのである。かなりてこずらせてしまった。

私は私で店内の音楽DVDにIGGYのライブを発見。それを持ってきて見ると、ありました。LOUIE LOUIE。しかし店員はそれをわざわざ見せてくれてこの曲かどうかと訊くが、ライブでは演奏形態もアドリブもありのはずなので、判然としない。結局私は「これはほぼ間違いなくイギーポップのルイルイという曲だと思う。またこちらで調べてみるよ。ありがとう。」と言ってとりあえず大変なことになってしまった曲探しを終了していただくことにした。店内混んで来たしね。

実はこれがきっかけでほぼ10年ぶりに私はCD屋の店内に入り、さらに興味を失って久しかった「音楽」を聴き始めたのであ〜る。


 
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2006年03月03日

ニュースの天才 (2003)

ニュースの天才.jpgニュースの天才
ヘイデン・クリステンセン (2006/10/27)


日本ではホリエモン関連を謳った偽メール事件で発信源はどうやら進退窮まっていたようだが、この映画は権威ある米国ニュース雑誌にデタラメの面白おかしい記事を「ニュース」として載せてクビになる男の話だ。

元は実話で実際にこのような事件を起こした一流雑誌については報道の真偽についても、記者の人間性においても大変な物議をかもしだした。
事件の発信源である現実の記者はその後セラピーを受けたりするが、むろん報道関係から姿を消して5年が経過する。フィクションをニュース雑誌に堂々と事実として載せてしまうという、その病的でさえある売名行為は映画では脚本と演出によってくっきりと浮き彫りにされている。
とりあえず雑誌は編集部全員の署名入りお詫びのページを載せて報道とノンフィクション関係者を震撼させた大事件の幕を閉じようとする。が、一度大きく傷ついた信頼を取り戻すにはどうすべきか。そこまでは映画としては進行しない。

記事をニュースとして掲載するまでは実に何重ものチェックが入る。実名の確認を始め固有名詞、場所などのウラ取り、インタビュー時のメモにはそれぞれの人物の座り位置まで記録する。
しかし何とこの夢遊病記者はフィクションの中での場所、インタビュー相手の電話番号、架空の会社のホームページまでを捏造するのである。しかも逃げも隠れも出来ない本人の記者名入りで堂々と載せてしまう。まさか、である。その「まさか…ねぇ」が実際に起きてしまった。

「平気で嘘をつく人たち―虚偽と邪悪の心理学」という本が話題になったりしているが、続編?の、良心に欠けた人々の災いに巻き込まれないためにどうするか、といった内容の本も売れているらしい。本作はそんな人物がどのように何の矛盾もなく自ら大嘘をつき続けるか、その心理と現場のまれに見る一つに案内してくれる。

 
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2006年02月26日

ゴダールの決別(1993)

ゴダールの決別.jpgゴダールの決別 デジタルリマスター版
ジェラール・ドパルデュー (2005/08/26)


ご存知ゴダールのご託宣映画である。
破壊された映画シリーズもこれで終わりだ。ゴダールはこの映画で「時間」を破壊してしまった。時間を支配できるのは神のみである。
今のところ人類は土の管理ぐらいしか任されていない。だから土をこね回して美しくも愛らしい美術品を生み出す日本人は神の下の本分を守っているわけだ。映画というメディアをひねくり回す歴史もこれで終焉を迎えた。

観るのに三日かかっている。まだ観終っていないのだが、もういいぞゴダール。確かに映画監督はフィルムの中で時間をいかようにも調理できる。しかし時間が無ければむろんストーリーにも決別を告げなければならない。つまり「リエン」である。

裸体に薄物を着て二階の窓辺に立つ女性のワンカット。こちらを向いていてとても美しい。と思った瞬間にべもなく役者は動き、そっけもなく次のシーンへ向かうゴダールフィルム。風も無い。
まあつまりそういうことだ。
posted by musicpc at 02:02| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | Movie DVD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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